居場所に役割や責任はいらない

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子どもの頃から役割や責任を果たすことで自分の居場所を保ってきたから、
やれることがないと居心地が悪い。
目に見える役割を果たすことができると「役に立った!」と嬉しくなるが、
自分一人でできないことがあると、迷惑をかけてしまったとか、手を煩わせてしまったと
思ってしまう。
ここで自分がやることはないから、出て行かねば、
と思ってしまう。
そんな自分がちょっと考えすぎなのかな~と思うようになったのは最近のことで、
周囲の人が「ありがとー」「ごめんねー」と
軽やかに笑顔で言って、前に進んでいくのを見るにつけ、
私に足りないのはこういうところなんだな、と思うのだ。

なので、ちょっと真似してみる(笑)

そうして一ヵ月、三ヶ月、半年、一年と経っていくと、
一年以上経ってもまだ借りてきたスーツのような状態のままではあるけれど
袖を通すのに馴染みがでてきて、
意識しないとなかなかそうは思えないものの
「お互い様」「持ちつ持たれつ」「やれる人がやればオッケー」「やれないときがあっても誰も私を責めない」
と実感を伴って思うことも多くなってきた。

いや、本当はそう思っていたけれど、そうは出せなかったのを出せるようになってきたというのが
近いのだが。
でもそれはまだ演技に近い。
どうしても、時間の隙間を埋めるように用事を引き受けてしまうため
未だ引き受けれない理由をひねり出して、時間を用事で埋めないようにする必要がある。
意識してそうしないと、私の場合、人と会うことそのものが苦痛になってしまう。
情けないと言えば情けないが、今はそうして人と一緒に過ごす時間のなかから、自分だけの時間を
間引くようにして確保している。

どうしてそうなってしまうのか。
多分、家族のなかで安心して自分をさらけ出す場所がなかったからかな、と見当をつけている。
物心ついた時から
家のなかでは父と母がいがみ合っていたから、
私は仲裁役だった。
いや、調停役だった。
子どもだったので、結構、自分のいのちを振り絞って、彼らと渡り合うことになった。
他にどうしようもなかった。
故に、早く老成してしまって、周りの同級生とは合わず、孤立。
結果、教師や大人とつるんでいた・・・。
(今思うと、もっと流されてもよかったのかもしれない、かな?時は戻らないし、私は私なので変えようもないが)

子どもの私にとっても父と母は子どもっぽかった。
努力し合ったり、寄り添ったり、思いあったりがなくなると人は奪い合う。
そういう現実はいたたまれなく、子どもにとっては自分の存在さえ危うくなってしまうことを
親は知ったほうがいいと思うが、いじめと同じで彼ら自身は子どもに対して痛みを伴わないから学ばない。
学ばない相手からは離れた方がいい。
学び合えないということはフェアな関係じゃないのだ。
大人(親)対 子ども ということは関係ない。
立場は関係ないのだ。









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by hituzi-to-yagi | 2018-03-03 15:55 | ひと